

第1回 『友禅染の成り立ち』はこちらをご覧下さい
第2回 『本阿弥光悦と芸術村』はこちらをご覧下さい
第3回 『地域に見る染色と染料』はこちらをご覧下さい

- 坂江
- 今、バティックってありますよね?ローケチ染の、ほら、ジャワ島とかなんとか。あれ。
あれを、日本人が向こうに行って見て、技法を持ってきてつくったと。ほら、1600年代くらいに、朱印船貿易が入りますでしょ?
日本の人間が向こうに行って、技法を持ってきたと僕は思ってる。
それまで日本人が見たものっていうのは、いろんな宗教の宣教師が来たときに持ち込んだもの。サラサ染めとしては持っているけど、それがどうやってできているのかは知らなかった。おもしろいことでは、甲冑の下に着る着物、あれがみんな絞り染めなんですね。ずーっと絞り染めが伝わってて、それがすぱっと切れちゃうんですね。博物館に展示してあるものでも、1600年代真ん中くらいで切れちゃう。
で、それから後は、茶屋染。それが短い期間。その後は友禅染になるんですね。で、友禅染ができたっていうのは、歴史的に見ると、奢多禁止令がありますね、贅沢はだめだよっていう。そのときに、友禅染は簡素だから許されたって資料に書いてある。
だけど僕はそれは間違いだと思う。結局、みんな新しい技法に行っちゃったんじゃないかと。だから茶屋染は廃れたんですね。
それまでつくってた工芸家はどうなったかっていうと……

坂江伸仁作「茶屋辻」
- 坂江
- 刀鍛冶、刀の目利き、本阿弥光悦は、それまでの男の視点で書いたものじゃなくて、刀の目利きの視野の広さをもっていた。
彼が本当は家督を継ぐはずだった。男の子ができなくて。でもぽこっと男が産まれちゃうんだよね。彼はもうそれが決まった時点で、鷹ヶ峯みたいなところに、100人くらい引き連れて……
- 安藤
- 家康が与えられた
- 坂江
- 与えられたっていうか、自分で行ったんですよ。京都から極東のあんな辺鄙なとこそれも、周りにいる職人、刀甲冑つくってる職人の主だったやつを連れて行って。
- 安藤
- 今で言うと芸術村ですね。鷹ヶ峯や、京都にもありますよ。
- 坂江
- 芸術村を作ったのは京都のあの辺りだけど、本阿弥光悦の家が真ん中にあって、尾形光琳の家があってなんてね。
ちょうどその頃、日本は戦がなくなってね、武器が不必要になった。刀鍛冶どうするんだ、甲冑職人はどうやって生活するんだって変わってきて。
そのときに、いろんな職人さんに民間のためのものを教えていったんだ。
- 坂江
- 茶屋辻模様というのは、歴史上で一番最初に糸目の技法でできたものなんですよ。(作品は)上野の博物館の茶屋辻のいわゆるコピーなんだけど、「糸目」をどうやって引いたか誰もわかんない。自分でいろいろ考えて、白い糸目はどうやってって、今は自分でこうやってチューブでシューと引けるけど。あれは(上野の博物館の茶屋辻)チューブでやってないのはわかってた。
- 安藤
- そうですか。じゃあ筆?

坂江先生の深い考察に圧倒されます
- 坂江
- 筆でもなくて。やっぱりチューブでやっちゃうと、濃淡がでちゃうんだよ。ポッチが出ちゃう、どんなにやっても。だからね、チューブを使ってないってわかった。塗り師、漆屋さんが塗る時に糊を使って、盛り上げるときに麦を下地にやるって知って、そのときに「あっこれだなぁ」ってわかった。
筆で塗り屋さんが線引くでしょ?何筆だったかなぁ、ねずみの毛を使った筆で、糊を引く。漆はね、琵琶湖のねずみが一番いいなんて言ってね。
それで、その中に金粉や銀粉とか入れて線を引くわけですよ。それがちょうど糊の濃度と同じだったんです。だから下っ端でも下手でもできたんです。
重ねてくでしょ、藍濃淡だから糊を重ねるんだけど、茶屋染は糊を重ねてるのに線がダレてない(ゆがんでない)。「なんでダレてないんだろう」そこで、なにかダレない糊を使ったんだろうと思って、漆をちょっと入れて制作したらダレないことが確認できたんだよ。
今みたいにパテとかあるわけじゃない時代だから、技法は隠したんだろうなぁ。

作品を前に説明する坂江先生
次回の、連載第3回「細密友禅の歴史を語る」まだまだ続きます。お楽しみに!
2010年8月25日更新予定